Dimension of Art

What does a person pray for and find from the expanse of art?Artists broaden the expanse, then a person dwells there.What does a person gain from the expanse of art that I attempt to explore?

Aesthetic pictorial art is an eloquent expression for it tells vividly that art exists.But it does not tell the reason, the meaning of the expression, and the way it ought to be expressed.It seems to refuse rational interpretation.I believe art is not rigid, art is formed by human perception.Inherently, it does not matter how art is expressed.Fundamental to this is my emerging understanding and vitality when art I encounter.

The moment I recognize art, it starts beating. As I recognize its existence, it comes alive.Grand mountains I greatly admire, though for the outsider they are merely surging as clouds of quantum.In awe I confirm the existence of art by seeing the universe of nature, then I quieten my exhilarated senses.I desire to draw the essence of art that surges indeterminately.This attempt is to reveal the dimension of art that spreads infinitely.When all my inherent vitality to this purpose is given, it becomes crystallized.This crystal is my embodied prayer.

美の地平線

人は美の地平線に祈るとき、何をそこに見出すのだろうか。作家はその領域を広げようとし、人はいつしかその住人となる。私が美の所在として押し広げようとするその平原に、人は何を享受するのだろうか。

芸術的絵画は表現において雄弁である。美がどこに内在するかを如実に語るからだ。だが理由については寡黙で、その表現方法にどんな意味があるのか、なぜその手法でよいのかは教えてくれない。時として整合的な解釈を阻むようにすら見える。私は美というものは不易などではなく、人の活動により決定していくものであると考える。本質的には美がどのように存在しているのかに意味は無いのである。私が美を観察したときに現れる感覚と行動性こそが全てなのである。

美とは私が認識した刹那、鼓動し始める。その存在を肯定したがゆえに胎動するのである。私から見れば雄大な山容も、埒外からみればただただ量子的な雲のように揺らいでいるだけなのである。私は万物自然を捉えることで美の所在を確定的にして、自己に流生している感覚を純化している。不確定にゆらぐ美の原理を私は描き続けたいのである。それは永続的に続く美の地平線を収束させていく行為でもある。自身に内在する全ての熱量が帰属性に相転移したとき、全ての想いは結晶化していく。この結晶こそが私の祈りのかたちなのである。

Taku Shinyama

絵筆を握れる憂いを、支えてくれる全ての物者に感謝し私はどこまでも歩くだろう。自分という場所に還れる、聖曲なるかの地へ。

- 聖曲の地へ -

- PRAYER -

私はこれまで、存在としての山を描き続けてきた。あなたが見ている山は、私が感じている山と、果たして同じなのだろうか。私が見ている物は見えない物に、聞こえている物は聞こえない物に。美という意識と同じ場所に在るのではないだろうか。人の持つ言葉や表現を超えたその場所に、私達もまた帰属している。両の眼を閉じその場所に還ることで私は、存在としての山ではなく現象としての山を、自分の心中線に置くことが出来るのである。

私は山を現象として捉え絵描いていきたい。それに気が付いたとき私は、山を絵描くことよりも、山に祈る時間のほうが多くなった。

この山は、私の祈りのかたちなのである。

This ART is my embodied prayer.